もしもし

今ちょっとだけだいじょうぶ?

生活と文章

今日はセミの抜け殻を2つ見ました。このあいだ、相棒が「生きてるセミアスファルトにいたから脇のプランターの方に持っていっておいたんだ〜。都会で踏んづけられないように。2週間しか地上で飛べないのにかわいそうだから。」と言っていて、「やさしいとこあるね」と返したあと、「いやでも地下の数年がむっちゃくっちゃ楽しくて、地上は案外みんな行きたがってないっていう説はないのか?」と返した。どうなんだろう。なんとなく「セミ 寿命」で調べたら、セミは寿命が13年か17年の周期ゼミという種がいて、素数にすることで交雑するタイミングをずらしているという説が出てきた*1。2009年の記事なのできっとその後色々な説が出ているだろうが、これは美しいなと思った。のを、今日2つ目のセミの抜け殻を見た時に思い出した。


そんなこの初夏、長い長い文章を書いた。名を修論という。
全然書けなくて、論文が書けるタイプ(というか書いたことがあるタイプ)の皆さんにダメ出しと組み立てをしてもらって、なんとかできた。できたと思ったら自分でもびっくりする大作になってしまって、今度は細かいところで直したり整えるのが面倒な量になってしまった。結果として出来上がったものは、まあ自分が置いた高い理想を超えはしなかったけれど、それなりに近づいて、褒めてもらえたりして、嬉しかった。
そして私はいつもそうだなと思った。最初のうちやり方が分からなくてやる気が出ないのだけど、何かのきっかけで目標が見えてきたら突然ブーストして寝食を忘れて進み続け、暴走しかけて最後困りながら終着点を見つけてなんとかするという。そういう感じなので一等賞にはならない(笑)。そういう意味では自分らしく最後まとめられたのかなと思う。
といいつつ、学部の時のように「卒業!〜完〜」ではなく、まだなんだかんだ細く続く道なのでなんとも晴れやかな気持ちでもないのだけれど。

そして7月の終わり一気に余裕が生まれて、8月になってワクチンを打ったら熱が出て、この前まで頑張ってた自分とは思えないくらい作業をする気がなくなった。なのに細かい仕事が残ってるのが恐ろしい。
嘘です。自分に甘いので「人間らしくていいじゃないか」とくらいに思っている。

どのくらい余裕ができたかというとこのブログを書いているくらいで、そうこれは「心の余裕」です。テレビとラジオはまだ忙しくても好きなものだけは見るけれど、映画を観ること、本を読むことは、今の私は気力があって始めてできることになってしまった。昔はもうちょっと気軽に触れてたよなあと思う。なので余裕ができるととても分かりやすくその時間が増える。あと好きな文章を書くという時間も増える。構成を組み立ててもらうサポートを受けず、ただ垂れ流していく文章。忙しい時期だけ手帳が真っ白になるので分かりやすい。こうやって自分のことを少しずつ分かってきて、ってもう25なんですけどね。みんな何歳くらいで分かるんだろうなあ。私は院生になってから掴めた自分のリズムや、分かった自分の特性が多いと思う。
実は体力があることとか。(強いられたものじゃないからかもだけど)徹夜も1日くらいなら特に平気なこととか。でもオールとかは相変わらずよっぽど好きな人たちじゃない限りいやなこととか。5人以上の飲み会は極力避けようとしてることとか。タイピングが速いこととか。考え事多い割に瞬発的に文章にする力が弱いこととか。だからTwitterが平々凡々なアカウントになっていることとか(笑)。いやもっと本質的なことあるけど、言わない!

それで、私はまた創作物にうんと触れて、とりとめのない文章をインターネットにも日記にもノートにも書くような時間が、量として少なくても大切にしたいなあと思って、リハビリのようにまたこの文章を海に放り投げようと思った。最近よくこういうことを思うので、自由があるうちにまた時々は書きたいなあ。本当にそれだけ。